滋賀/cafe&roasting米安珈琲焙煎所/川那辺成樹さん

セトレマリーナびわ湖のラウンジでは、お客様がコーヒー豆をミルで挽いてドリップするコーヒータイムをご提案しています。日々の喧騒から離れて、珈琲を淹れるひとときを愉しんでいただきたい。朝陽を浴びてキラキラと輝くびわ湖をイメージしたすっきりテイストと、夕方、黄昏の空の変化を見つめながらゆっくりと味わうじっくりテイストの2種のセトレオリジナルコーヒー豆は、「cafe&roasting米安珈琲焙煎所」店主、川那辺成樹さんが厳選し焙煎しています。一杯の珈琲と、自家製ドイツ・ウィーン菓子、そしてサービスに到るまでこだわり抜いたコンディ・トライのカフェが目指すのは、「人々が集う、地域のコミュニティの場」でした。

滋賀・守山で味わえる
スペシャルティコーヒーのこだわり

琵琶湖に面し、滋賀県南部に位置する守山市。守山駅を下車し、昔からの商店が並ぶ守山ほたる通り商店街を歩いてしばらくすると、微かに珈琲の香りが漂ってきます。通り沿いに現れたのは、隠れ家のような佇まいの白い建物。半円アーチ型の扉を開くと、滑らかな曲線のカウンターに、高い天井、奥にはテーブル席と解放された心踊る空間が広がっていました。

ここが滋賀県で唯一、コーヒーの一級資格「アドバンスド・コーヒーマイスター」の称号を持つ川那辺成樹さんが2015年に郷土にオープンした「cafe&roasting米安珈琲焙煎所」。12種類のスペシャルティコーヒーと、3種類以上のブレンドを中心に、自家製ドイツ・ウィーン菓子も提供しています。週末にもなると、1日100名ものお客様が大阪や京都からも訪れる、知る人ぞ知る本格的なカフェです。

「スペシャルティコーヒーは、世界の全生産量のうち超高級珈琲のことです。実際に現地で収穫されたコーヒー豆をカップテストで評価するプロのコーヒーカッパーがテイスティングして評価します。厳しい基準を通過し認定されるのは、全世界のコーヒー豆のたった5%です」

そう話す川那辺さんは、取材中度々焙煎室を行き来し、特殊かつ繊細な技術で焙煎をします。出来上がったばかりのコーヒー豆のなんて艶やかで美しいこと。厳選された豆と焙煎技術に加えて、「ハンドピック」という欠けた豆や色の違う欠点豆を手で取り除く作業を生豆から焙煎前後に4回も行います。

「全部手作業で省くので、割れや色のばらついた豆も一切ありません。見た目が綺麗だと、珈琲の味も綺麗。イガイガやザラザラした味もなく、胸焼けもしません。手間暇をかけることで美しい珈琲ができるんです」

品のある芳醇な香りと、雑味のないまろやかな味わいの珈琲。ここまで追求する珈琲であれば、さぞ店内にはお客様の作法やルールが設けられているのでは・・。と思った矢先、「おおきに!」と帰られるお客様に声をかける川那辺さん。カウンター越しでは、お客様と和かに会話をするスタッフ。人と人との温度が感じられる店内を不思議に感じていると、川那辺さんがこう言いました。

「僕ね、コーヒーマニアとかじゃなくて、人が集まるコミュニティを作りたかったんです」。

人生を変えた1冊の書籍。
「カフェ」は、地域に根ざして、人々が集う場。

川那辺さんは、もともと東京で産業心理カウンセラーとして働き、その後、健康増進のリトリート型ホテルのディレクターに。体調を崩したことがきっかけで、故郷に帰ることを考えていた矢先、人生を変える1冊の本と出会います。師匠である田口護氏の書籍『カフェを100年、続けるために』。田口氏は、東京の台東区にある日本屈指の珈琲店「カフェ・バッハ」の店主であり、コーヒーの焙煎を確立された珈琲界の神様と称されます。

「『カフェは地域のインフラであり、生活の一部になるのがカフェ』と書籍にあり、感銘を受けました。紀元16世紀ヨーロッパが起源で、カフェは市役所や美術館の周辺にあり、政治家が集まり政治を語り、芸術家が集まり芸術や文化を語る場がカフェだった。それが本来のカフェだと先生が仰っていて。まさに僕がやりたいことと一致したんです」

約20年いた心理の世界の、個人と個人の関係性に限界を感じていた川那辺さんは、不特定多数の人が集まり、一期一会で、出会いがあって物事が生まれることに魅力を感じていました。「地域と一体になる場所を作り地域に根ざした存在になりたかった。そのツールがカフェだった」と気づきました。

そして、田口氏に弟子を懇願し直談判。当時、川那辺さんは42歳。妻子もいる中、勇気のいる決断に背中を押してくれたのは、妻の悠子さんでした。

「地元に帰ってすぐ開業しようとしたら、師匠は『普通の企業に就職して、働きながら修行しなさい。3年半で技術つけたら独立してもいい』と。40にもなって路頭に迷う。どうしようと思いましたね」

ところが、失業給付を受けに訪れたハローワークで、川那辺さんの経歴を見た担当者から窓口相談員になってほしいと依頼され、翌日から草津市のハローワークに勤務。2年半働きながら、東京に通い焙煎修行をしました。

「その間に、焙煎した珈琲を妻とフリーマーケットなどで出展しては、『2年後にお店オープンします』と、顧客を作っていきました。『オープンした時に200人の顧客を持っていなさい』というのが師匠の条件。もう必死でしたね」


そして、ようやくオープンした時点で、約束通り、米安珈琲焙煎所には200名のお客様ができていました。

「師匠は結局見抜いていたんです。パッと戻ってパッと店やってもお客さんこないだろうと。実際、水や風や顧客を掴むには、2年必要だったとわかりました。生まれ故郷でも、地元の人がどんな生活をして何が求められているのか、わかりませんでしたから」

現在、田口氏に唯一修行を許された100名だけが、全国で暖簾分けして開業しています。バッハコーヒーグループを形成し、田口氏が世界中飛び回り選んだ高級なコーヒー豆を共同購入することで、最高品質の豆が川那辺さんの元にも届くといいます。

代々続く「米安」の屋号で
地域のコミュニティを担い続ける

店名の「米安」は、川那辺さんの曽祖父が明治初期に開業した米屋の屋号で、祖母も米安の名で駄菓子屋をしていました。そして今、川那辺さんのカフェへと、代々受け継がれています。

「曽祖父の安治郎という名前から『米安』になったんです。米屋は地域の食のインフラで、駄菓子屋は、100円握りしめて子供が買いに来る子供のコミュニティ。そしたら僕は、大人のコミュニティを作ろうと、同じ名前にしました」

祖母の駄菓子屋を知る40〜50代の地元のお客様は、当時の思い出話をしてくれる。息子さんが、駄菓子屋の米安を知る父親を連れて親子2世代で来店してくれることも。

「曽祖父の当時の米粒が、珈琲の豆粒に変わっただけで、地域に貢献するというスタンスは変わりません。米屋として地域の食を担い、駄菓子屋として子供達のコミュニティを担う。珈琲店はヨーロッパのポリシーに習って、一期一会で出会い語り合う場に。3代続くそのポリシーは変わりません」

ご近所の週2回必ず来てくれるお客様や、遠方から毎週同じ曜日に来店するお客様まで。初めてお店で出会ったお客様同士が、知り合いになり、ビジネスが生まれることも。一期一会の出会いを繋げるさじ加減は、川那辺さん次第。「繋がなあかんと、ピンと来ることもあります」。そのためには、お客様のことを知ることも重要です。

「人の話を聞く、という本質で言えば、カウンセラーの頃と変わらないですね。人の本質にある『繋がりたい、人に関わりたい』という普遍的なニーズは、コロナ禍でさらに高まっているとも言えます。長く続くお店は、お客様はマスターに会いにくる。スタッフにも『お客さんとしっかり話すこと、そのスキルを身につけることの大切さ』を伝えています。それがこの店の一番の本質ですし、個人店にしかできない、絶対の差別化だと思っています」

片田舎にあるから面白い。
大切なのは、人間力。

珈琲に加えて、自家製ドイツ・ウィーン菓子のクオリティが非常に高いのも米安珈琲焙煎所の特徴の一つ。ドイツ菓子製パンの巨匠である江崎修パティシエが監修し、江崎パティシエの元で習った悠子さんが、季節ごとのケーキを毎日焼いています。

「超トップの珈琲と、超トップのお菓子があることが大前提。両方を自前で作って、クオリティを保ち続ける。そんなパティスリーとカフェを併設したヨーロッパのカフェがお手本の『コンディ・トライ』のお店は、日本では少ないと思います。しかもこんな片田舎のどこにあんねんという場所にあるのが面白い。わざわざ来てくださるんですから」

これからも地域のコミュニティの役割を担っていきたいと語る川那辺さん。個人飲食店の3年生存率は3割満たない厳しい世界。コンセプトとポリシーがいかに明確で、かつ具現化しているか。個人の魅力やスキルが集まるチームこそが強いといいます。

「スタッフには、珈琲屋になるなと言っています。珈琲のプロフェッショナルはすごく狭いし、そこじゃない。人となりの人格の大きさに人が集まりますから、人間の魅力は個々で高めないといけない。人間力はすごく求められます」

近年は、自身のカフェはもちろん、他のレストランやホテルなどの珈琲に関するディレクションやプロデュースも数多く手がけています。

「思い描く絵はだいたい実現しています。妄想をいっぱいして、言葉にする。言霊にするんです。そうするとだいたい形になるんですよ」と笑う川那辺さん。

手間暇かけて出来上がる最高級の珈琲は、誰かを癒し、誰かにとって日常の一部となる。今日も米安珈琲焙煎所で生まれるお客様との会話や笑顔が目に浮かびます。