姫路/たつの市龍野町/井戸糀製造所/井戸正文さん

セトレハイランドヴィラ姫路では、糀、大豆、塩のみを原料としたオリジナル味噌を使用しています。その味噌は、姫路市に隣接するたつの市にある井戸糀製造所で手作りで作られています。大正時代に創業した糀店を夫婦二人三脚で営む井戸さんのお店を訪れました。

 

西播磨の城下町で営んできた糀店

播磨の小京都と呼ばれ、江戸時代から昭和初期に建てられた白壁や町家造りの建物が立ち並ぶ兵庫県たつの市龍野町。江戸時代に形成された町割が残り、城下町としての趣が今も息づいています。

大正15年創業の井戸糀製造所は、醤油醸造の一大産地だった町で醤油づくりに欠かせない糀の製造からはじまりました。100年以上の歴史を築き、昔ながらの手作りの製法にこだわった糀を製造するとともに自家製の味噌や甘酒なども販売しています。糀や味噌の原料は、同じ町にある上田農園のヒノヒカリと大豆、赤穂の塩を使用していてどれも地元産です。4代目の井戸正文さんは、奥さまの真由美さんと2人でこの店を切り盛りしてきました。

「糀からできているのは、日本酒、焼酎、味噌、甘酒、醤油、お酢、みりんなど。日本の和食を支えているのは、糀と言いきってもいいくらいのものなんです」

漬物や納豆など、日本では昔から地域の風土に合わせた保存食として発酵文化が育ってきました。発酵の元となる糀は日本のみで育ち、2006年には国菌に指定。数年前の塩こうじブームをきっかけに、発酵食が再び注目されるようになりました。

「糀は顔の艶をよくして身体の免疫力を高めてくれます。まずは一日一食、一杯のお味噌汁を飲むことがおすすめですよ」

そう話すいつも糀に触れている井戸さんのツヤツヤとした肌、終始笑顔でお話される生き生きとした姿こそ、糀の効果を証明しています。

4日間、手間ひまをかけて糀を育てる

井戸糀製造所の建屋の奥で糀作りは行われていて、糀ができるまでに4日間かかります。まず1日目は米を洗い、2日目に水をきって米を蒸し、人肌に冷めた米に糀菌を撒いて糀室で発酵させて一晩寝かせます。3日目になると、菌をつけた糀が繁殖して35〜40度の発酵の熱を出しすのでその温度を保ちながら、糀を小分けに並べる糀蓋に移し変えて手入れを3回。そして4日目の朝になると、バラバラだった一粒一粒の米にびっしりと菌がついてようやく糀が完成するのです。

「そのときの環境によって加減が毎日違います。糀を触るとわかるんです。温度を調整するために糀を並べた糀蓋の並び加減を上にしたり下にしたり、細かな感覚を頼りに微妙に変えていきます」

案内されて実際に糀室に足を踏み入れてみると、入ったとたん糀が発酵する熱気に包まれます。繁殖した糀菌によって、糀室の室内や何段にも積み上がった糀蓋は一面炭色。すべて手作業で繊細な温度調整をするために、煉瓦と壁の隙間にもみ殻を入れ熱の流出を防いだり、扉の下にテープを貼ったりとその都度対策をするそう。

「糀を作るときは、4日間はここを離れられないんです。毎日米洗っての繰り返し。お酒を飲んで帰ってきても、帰宅してから米を洗いますし。夏場は外と気温が変わらなくて湿度もある。ヘトヘトになりますよ」

もともと糀作りは冬の仕事でしたが、最近は注文が次から次へとくるため7月中旬頃まで行い、9月中旬から再開しています。

「糀を作らない間には、糀蓋を水でふやかして洗って削りきれいにします。吉野杉で作られているので水の吸収がいいんです。一番新しいものでも昭和8年に作られたものを使い続けていますね」

今も追い続ける、父の背中

「塩糀のブームから8年経ったでしょう。生き返りました本当に。全国の糀屋さんがほんまに蘇った」

井戸さんは、小さな頃から糀作りをする父の背中をみて育ってきました。幼い頃から家の手伝い、たつの市にあるマルテン醤油に就職後、京都勤務で営業職に就いてからも、忙しい家業を手伝うため週末になると龍野に帰ってきていました。

「醤油屋に勤めて手伝っている頃に親父が怪我をして、父の背中を見ていると戻らないとかなと思ったんです」

7年勤務し家業に戻ってからは、用事ができたと言っては作業を父に任せることもしばしば。それから数年後、父が他界して自分が継ぐことになって初めて、糀作りの難しさに直面しました。

「いざとなったらいい糀が作れなかった。細かい温度調整が求められるなかで、親父は糀室を出たり入ったりして温度を体で感じていたんです。初めそれがわからなくて。温度の加減を体感しながら1時間かけて下げていく。そういう細かく地道な作業を親父に教えてもらったんじゃないのかなと。見よう見まねで失敗しながら、今に至りました」

井戸糀製造所は、初代と2代目は醤油造りのための糀を製造し、3代目は農家の味噌を作ることが中心でした。播州で糀が使われるのは、秋祭りの甘酒を作る材料か味噌を作る材料くらいで、農家が持参する古米と大豆で味噌加工をして返すのが冬場の主な仕事。その状況は発酵食ブームによって激変。今では自分で味噌を作る人も増えて、井戸さんは味噌作りを教える機会も増えました。

「米糀は裏方だったのが、今は表舞台に出てきています。今は年中売れていて、親父やお袋が生きていたらびっくりしていると思います。こんなこと本当に夢みたいだし、感謝せなあかん」

注文が止まない一方、販売方法にはこだわりがあります。主に店頭で販売するほか、卸はお世話になっている2店のみ。順番を待ってくださるお客様に誠意を込めて届けるためにも、直接やりとりする関係を大切にしています。

「妻と2人で営んでいるので、もともと作る数も限度があります。だからこそ、お客さんには顔の見える距離で商売したいんです。あちこちに販売するということは極力お断りしています」

糀の魅力を伝えながら
お客様へ恩を返していく

井戸さんは、「糀の力でもっとお客さんに健康になってもらいたい」「もっとお客さんに恩返ししていきたい」と考えています。その一環として、糀を製造する傍ら、お客さんが参加できる味噌教室に精を出しています。

龍野町で毎年開催されるオータムフェスティバルで行う味噌教室は常に大人気。16 年続いてきた中で、当初は味噌教室を開いて釜いっぱい大豆を炊いても5名や2名しか集まらなかったそう。それが今では7月から予約が入って断るほどの盛況ぶりです。

また、京都の保育園では毎年園児の味噌作り体験を行なっていて、井戸さんは朝大豆を炊いて車で京都まで向かいます。

「保育園児も自分で作ると、みんなお味噌汁をおかわりするんです。家では飲まなかったのにその姿をみてお母さんも驚いて、また作ろうってなるんです。そんな子供たちの顔をみるのもほんまに嬉しい」

さらには、井戸糀製造所で味噌を作ってほしいと、お米を自ら持ってくるお客様も。先日は赤穂から40キロの米をお母さん達が持ってきました。

「以前は12月終わりくらいから販売用の自家製味噌を加工していました。それが今ではお客さんの味噌や糀を作るのに忙しくて、冬場はなかなか作れなくなってます」

安心で美味しい味噌ができることに加えて、発酵の魅力を楽しく教えてくれる井戸さんの人柄こそ、お客様が集まる要因なのが伝わってきます。

この味を求めて
きっとまた龍野に訪れたくなる

龍野町の城下町の一部は、昨年末に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。龍野の建造物や街並みがより注目されて、さらに観光客が訪れるようになると井戸さんは考えています。

「龍野は保守的なところがありますが、それが悪いとも言いません。これから外から人がきて移住することもあるかもしれないし、外の人が入ることで栄えることもあると思う。一方で、どんどん変わったら龍野のよさがなくなりますから、守っていくものは守っていきたい」

井戸糀製造所のこれからについて伺うと、一番困っているのは後継者だと苦笑い。

「後継者がいないので、嫁さんと仕方ないな、私たちの代で終わらそうとしているんだけど。でもね、近所に『うちの息子を絶対後継ぎさせるから』と言ってくれる人もおって。それはそれできてもらってもいいしね。外から人が来るようになったら、ここで働きたいと言ってくれる人もでてきてくれるんちゃうかなとも半分思っています」

井戸さんの表情は朗らか。歴史が詰まった井戸糀製造所には、お客様に美味しさと健康を届ける豊かな発酵が息づいています。自家製の味噌や甘酒の優しい味わいは、精魂込めて作られた井戸夫婦の想いあってこそ。一度味わってみると、きっとまたこの味を求めて龍野に訪れたくなるはずです。